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国定平和記念碑になっている折り曲げられた線路

TU01.GIFヴェステルボルク通過収容所 TU01.GIF

HANA5.GIFオランダ、ドレンテのヴェステルボルク通過収容所(Kamp Westerbork)を見学してきた。
1930年代、オランダはまだナチス」ドイツの支配を受けておらず、ドイツで迫害に遭ったユダヤ人難民達を受け入れていた。
ヴェステルボルクはそのための受け入れ施設の一つだった。
ところが、1940年5月10日、ドイツがオランダに侵攻。
4日後の14日にはオランダ全域を占領し、国内ではユダヤ人に対する圧力が強まっていった。

1942年、ウェステルボルクはナチスにより、ドイツやポーランドにあった大量虐殺用処理収容所に送る前の中継地点である通過収容所となる。
1944年8月8日、アンネの日記で有名なアンネ・フランク一家と隠れ家の住人達も、この通過収容所に連行される。
「通過収容所」とは、捕らえたユダヤ人を一時収容する施設である。
ここヴェステルボルクには、学校、診療所、スポーツ施設、キャバレー、コンサートなど、エンターテイメントが揃っている。
収容所内で結婚式まで挙げる事ができた。
jここに収容されたユダヤ人達は、こんな光景に一縷の望みを託す。
「ああ、収容所生活も悪くないじゃないか」と。
その楽しさと快活さ、与えられた自由は…死への入り口にすぎなかった。
かれらにまやかしの自由を与えている間に、オフィスでは「どの施設へ送るか」の選別がなされていた。

毎週火曜日に「東方」への列車が出ている。
「東方」, それはドイツやポーランドへの強制収容所や絶滅収容所を意味する。
1944年9月3日、アンネを含む隠れ家の住人達は、「東方」行きの牛馬運搬用の列車へ詰め込まれる。
行き先はアウシュヴィツだった。

このヴェステルボルク通過収容所に一時収容されたユダヤ人達は約10万人。
その後数々の収容所に移送され、戦後生き残ったのはわずか5000人だった。
ユダヤ人のほかにも、ジプシーや思想犯、レジスタンスとみなされた人々も、犠牲者となった。

現在この収容所跡には記念館があり、フィルムや当時の資料を閲覧することが出来る。
一番怖いと感じたのは、当時のエンターテイメントの映像である。
キャバレーで陽気に踊る踊り子、コメディアンのトーク。クラシックコンサート。人々は楽しんでいる。
その後の収容者たちの恐ろしい運命とはあまりにも対照的で皮肉な楽しい光景。

2キロほど歩いたところに収容所跡があり、追悼記念碑、当時の再現棟などが見れる。
そしてオランダ国定の追悼記念碑になっているのが、火曜日の列車の線路。
先を折り曲げることにより、戦争や死、悲劇への線路を絶つ、という意味合いがある。
折り曲げられた線路の先には花が捧げられている。

8月初旬のこの付近の風景は、花が咲き、緑は輝き、森ではベリーが熟れる。
アンネ・フランクもちょうどこの時期にここに収容された。
私が見た風景は、アンネが見た風景でもあるのだろう。

Herinneringscentrum Kamp Westerbork
Oosthalen 8
9414 TG Hooghalen
T (0031)593 - 592600
F (0031)593 - 592546
http://www.westerbork.nl/

参照URL:

アンネ・フランク
アンネ・フランクハウス
アンネの日記

記念館から収容所跡への道 途中に森や平原が広がる ベリーが採れる
オランダの詩人 Jan Campertの詩文碑。
占領下ユダヤ人として捕らえられ1943年Neuengamme強制収容所で死亡

収容所跡。復元された施設や追悼記念碑が設置されている

犠牲者の数だけ敷き詰められた星のオブジェ

自然溢れるサイクリングコースや愛犬の散歩コースでもある。ここが死への入り口であったことが嘘のようである。

エリカ(ヒース)の季節


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