ホランド・ウォーターラインの歴史

オランダが防衛に水を使用し始めたのは16世紀後半。スペインのハプズブルグ家からの独立を闘った八十年戦争(オランダ独立戦争)からである。
アルクマール市がスペイン軍に包囲された時、既存の堤防を決壊させる計画をスペイン軍が知り退却。
その後スペイン軍はライデン市を包囲するが、市民の激しい抵抗に加え、オラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム)率いるオランダが堤防決壊作戦を実行し、スペイン軍を撤退させたのが最初である。
(現在の所、「アルクマールで既に決壊作戦が行われた」と言う説と、「アルクマールは伝令を捕まえただけ」という説があるので、後日詳細が解ったら修正します。)

その後、ウィレムの子息マウリッツが1589年から「洪水線」としての構想を膨らませ、1629年その弟のフレデリック・ヘンドリックのもと着工。まずはユトレヒト州の協力を得て、ユトレヒト・ウォーター・ラインを建設。ゾイデル海からマウデンを経て、ヴェヒト川に沿ってフリースワイクまで延びたものであった。洪水線を意識した初期的な要塞も数箇所建設された。

現在サッカーやその他のスポーツでオランダのチームが鮮やかなオレンジ色のユニフォームを身にまとい、サポーター達がオレンジ一色になるのは、このオラニエ公のオラニエ(オレンジ)からである。そして現在のオランダ王室は、このオラニエ公の子孫である。

17世紀後半になると、オランダは各国の戦争に巻き込まれる立場となる。
1672年は「災厄の年」と言われ、海からはイギリス海軍、陸からはフランスのルイ14世軍とドイツ司教区(ミュンスターとケルン:ウィレム3世はプロテスタントだったのでカトリック司教区と折り合いが悪かった)の侵入、と3カ国に睨まれる。その為もっと強化された洪水線を敵の侵入に対し急いで設定した。これがオールド・ホランド・ウォーターラインである。
ルイ14世下のフランス軍は1674年オランダの大半を手中に収めたが、このオールド・ホランド・ウォーターラインによって撃退される。オールド・ホランド・ウォーターラインは、マウデンからウォールデン、スホンホーフェンを通りホリンヘムからデン・ボス近くまで延び、人工洪水をユトレヒト市の西方に向かって起こすことが出来た。

18世紀末にフランス革命が起こり、勢いづいたフランス革命軍はオランダまでやってきた。冬季、オランダの河川は凍結し洪水防衛が効かなくなった。革命軍は凍結した河川を渡りオランダを侵攻し、バタヴィア共和国となる。
ただその頃の背景として、フランス革命のような民衆による革命は、他国の民衆の共感の得る所となっていた。そのためオランダの民衆でも、オラニエ家や富を独占する一部の商人たちに不満があって、革命軍を歓迎した者もおり、激しい抵抗というものではなかったようである。その後ナポレオンがバタヴィア共和国を廃止してフランス領にしてしまってからは、オランダの民衆の失望は大きかった。結局ナポレオン失脚後、再びオランダ王国統治に戻った。
19世紀フランス統治時代に、ユトレヒトを防衛線に含めたニュー・ホランド・ウォーターラインがクレエンホフ将軍によって構想される。そしてオランダ統治に戻った1815年、国王ウィレム一世はクレエンホフ将軍に、オランダという国全体の防衛計画を命じ、ニュー・ホランド・ウォーターラインの建設がはじまった。
これはオールド・ホランド・ウォーターラインをもっと東まで伸ばし、ユトレヒトを包括するものであった。ユトレヒト東方はハウテン・フラクテという高台で洪水が不可能な地域だったので、サポートの為に多くの要塞が建設された。洪水が完全に不可能な地帯には特に強固な要塞が建設された。
ニュー・ホランド・ウォーターラインは、直訳すれば、「新オランダ洪水線」といった所だろう。ニュー・ホランド・ウォーターラインは、前ゾイデル海(現アイセル湖)からビスボスまで及び、長さ約85km、幅約3.5km。マウデン、ユトレヒト、フリースワイク、ホリンヘム等オランダの都市の防衛線として確立された。
洪水線は上記の軍事専用施設のほかに、マウデン、ウェースプ、ナールデン、ホリンヘム、ウォドリンヘムの5つの城塞都市、更にマウデン城、ローフスタイン城の2つの城を含む。
左図は、19世紀末から20世紀初頭のニューホランドウォーターラインの図である。矢印は洪水用の水を川から取り入れる方向である藤紫色のエリアは、洪水を起こした時の浸水地域である。図のようにナールデンはニュー・ホランド・ウォーターラインに含まれているが、日本の大多数の人がアムステルダムのディフェンスラインと勘違いしている。(旅行会社でさえ勘違いしている時があるらしい。)
ニュー・ホランド・ウォーターラインの要塞群は、下記のような分類になる。

-もともと昔からあった、城や要塞、城塞都市をグレードアップし要塞化したもの
-19世紀以降に新しく建造されたもの

;上記施設はいずれにしろ絶えず新しい軍事情勢に適合を迫られ、構築は主に 5回の期間に渡り行われた。

1816年〜1824年はニュー・ホランド・ウォーターラインの初期段階で、いくつかの新しい要塞が建設された。
要塞から外敵への攻撃で、要塞から発射する火器(銃や大砲)の射程区域が必要であった。その為、要塞やその他軍事施設の半径300メートルから1000メートルの区域はあらゆる種類の建設と農業が規制され、この区域に何かを建造する場合、軍の認可が必要であった。これを禁止区域法(Kringenwet)といい、防衛施設の半径300メートル以内は建築不可、600メートル以内は木造建築だけ、1000メートル以内は破壊しやすい建築、という具合に既定された。

1840年〜1860年の第二期構築期には、重要な要塞は堅固な円形の要塞塔を備えるようになる。これらの要塞塔は、主に堤防に沿って位置した。

絶え間ない兵器や火器の発達で、銃弾の到達距離がより長くなる。その為1867-1870年の第三期では、ユトレヒトやナールデンの最前線をより市中から離れた位置に設置した。ユトレヒト周辺にセカンド・リング(第二環状防衛線)を置き、ルイヘンフック、フォードロップ、ヴェヒテン、およびレナウェンなどの要塞が建設される。レナウェンは当時、この防衛線上に造られた中で最もコストがかかった要塞であった。またヴェヒテンは2番目に大きい要塞であり、ニュー・ホランド・ウォーターラインで1番と2番目に大きい要塞はユトレヒト第二環状防衛線に位置することになった。

ニュー・ホランド・ウォーターラインには常時約12000人の兵士が配置された。国際的な緊張が高まった最中は、6000人の兵力を追加された。戦争が差し迫っていた時、ホランドウォーターラインラインに配置された兵士は33,000人〜36,000人に及んだ。
日本の九州位の国土しかない国である。他列強に比べ、兵士の数は圧倒的に少ない方。1815年当時、オランダの人口は300百万人位だった。(2001年に一千六百万)
ニュー・ホランド・ウォーターラインの動員は各々の要塞で様様な時期にあったが、国家総動員(男子だけ)は3回あった。といってもある程度の資金を出せば動員を免れたので、国家総動員とは言わないのかもしれない。兵士になったのは労働者や農民など裕福ではない者だったとのことである。

第一次総動員は1870年の普仏戦争発生時に行われた。その最初の動員で、オランダの要塞と防衛システムが時代遅れであったことが判明。普仏戦争を参照しながらかなりの欠点が明るみに出る。対爆掩蔽施設が少数しかなかった。オランダの兵器は時代遅れであった。そして要塞の機能も兵器の発達に比べ低レベルであった。
その為1874年に 要塞法(Vestingwet)が公示され、国内防衛を強化することになった。
それを受けてアムステルダムのディフェンス・ラインが1880年から建造されることになる。
アムステルダムを最後の砦と設定し、当時で最新の武器と様式が取り入れられた。(ただし1880年〜90年頃の最新である。)洪水線によるオランダ全体の要塞化が本格化する。

洪水のお陰で農地が水浸しになり、農作物に影響が出る。塩水を組み入れた地域では塩害が出て長い間使い物にならない土地になる。オールド・ウォーターラインの期間は、自分達の敷地から水を他に移動させる為、堤防を破壊した農民達もいた。その為1896年の防衛洪水作戦条例により、演習あるいは動員により洪水を起こした時は、その土地の住民に補償が出ることになり、洪水線への理解を促した。

1877年〜1879年の第4期では、1870年の動員で明るみに出た短所を修正した。
要塞塔の高いものは上階を削り、掩蔽を施した。しかしその後すぐの1885年、榴弾が出現し、またもや修正が最新バージョンというわけにはいかなくなる。しかも1886年にノーベルが発明したダイナマイトも、後に戦争に使用されるようになる。
これらの火器は、それまでの黒色火薬ベースより16倍から20倍の破壊力を持っていた。
技術革新が大変なスピードで加速し、ニュースが入るたび改修工事の連続となった。

第一次世界大戦が勃発し、それに遭わせ1914-1918年に第二次動員が行われる。
この頃は第5次構築期であると共に、要塞構築期の終焉でもあった。
第一次世界大戦では中立を貫いたオランダだったが、西部戦線の情報から検証。
要塞に篭城すれば毒ガスが撒かれるようになった。
ドイツ軍による隣のベルギーのリエージュ要塞郡の陥落は大きな衝撃をもたらした。オランダの要塞と似たような造りのリエージュの環状要塞郡を、クルップ社製の世界一の巨大榴弾砲「ビッグ・バーサ」があっけなく打ち砕いたのである。
クルップ社はドイツの著名な重工業企業で、兵器に関しては鉄血宰相ビスマルクの頃から、特に大砲で名を為していた。クルップ社は商人根性だったので、ドイツのみならず各国から発注を受けていた。オランダの幾つかの要塞にもクルップ砲が取り付けられる。ドイツの侵攻に備えてドイツ企業から大砲を買ったわけである。

軍用機の出現も厄介であった。植樹によるカモフラージュの効果が薄れてしまうのである。
1915年にドイツがイギリスに飛行船ツェッペリンによる初の空爆を行う。空からの攻撃が現れたのである。
(ただし飛行船だけにスピードがないのですぐに撃ち落された)
軍用機は大戦初期は偵察機だった。機関銃を搭載できるほどの馬力が無く、搭載実験をした飛行機は重さで墜落し、「パイロットは敵ではなく自家用機に殺された」と言われた位である。
しかし大戦中にはドイツ軍のフォッカー EIIIなど、戦闘機が出現する。

ただし第一次大戦では、まだ航空戦は命中率も低く主流ではなく、塹壕戦がメインであった。
1914年、大戦初期のドイツ対フランスのアルザス・ロレーヌ地方を巡る戦闘。
普仏戦争で失った当地の奪還を目指すフランス軍は、19世紀の戦闘の美学をひきずっていた。
正々堂々と姿を現し、愛国の印の赤い布などを身にまとう。そして19世紀の歩兵の形式に乗っ取り突入攻撃を試みる。
しかし、ドイツ軍は既に緑色のユニフォームでカモフラージュを取り入れ姿を現さず、マシンガンなどの発達した火器で砲火を浴びせた。そのため次々姿を現したフランス軍の犠牲者が多発する結果となった。
この例から大戦は塹壕戦へと突入していく。そして英雄美学より効率を重んじた現代思想へと移っていく。西部戦線の塹壕は何百キロにも渡り、互いに攻撃機会を伺う持久戦となる。そして破壊力を増した火器や化学兵器の登場により、ひとたび衝突が起これば多大な犠牲者を出すものとなった。
ドイツが「ランチはパリで。ディナーはペテルスブルグで」と、短期戦と考えていた大戦は、実に4年にも及んでしまうのである。
余談であるが、ドイツを第一次世界大戦へと導いたドイツ皇帝ウィルヘルム二世亡命の地は、このウォーターラインのあるオランダ・ユトレヒト州である。ドールンという森林地帯の街にささやかな住居がある。
もう一つの余談は、ドイツの軍用機フォッカー機の生みの親、「アントン・フォッカー」はオランダ人である。

上記のような例から、19世紀スタイルの要塞の建設や拡張は20世紀では意味のないものと判断され、結局第一次大戦中に、オランダはホランド・ウォーターラインの要塞建設に力注ぐことを止める。
しかし第一次大戦でのベルギー国境の戦闘から、長雨やぬかるみが多大な被害を及ばしたことが証明されたので、洪水防衛は引き続き全国的に考慮される。
第二次大戦直前まで要塞は、シェルター(避難壕)やバンカー(トーチカ)を設置して塹壕を掘るのが主な修正になる。シェルターやバンカーは要塞の上や周囲、他の要塞との間、防衛線上の河川や運河沿いに設置された。ニュー・ホランド・ウォーターラインでよく目にするのは、「ピラミッド」と呼ばれる第二次大戦前に大量にばらまかれたシェルターである。第一次大戦時の避難壕は低めでかがまないと入れない為、ピラミッド型に改良された。
また黒色火薬時代は弾薬庫を地下など別室に設け細心の注意を払っていたが、第一次世界大戦では砲弾は工場で大量生産も可能になり、地表に倉庫を建ててダイナマイトなどを保管するようになった。
結局第一次大戦以降、要塞は当初の目的を失い、シェルターやバンカー、塹壕で防御陣地化されたり、倉庫や兵士の詰め所みたいな機能になっていく。

第3次動員は第二次世界大戦の始めの1939年に行われた。引き続きシェルターやバンカーが設置され、塹壕戦に備えることとなった。
戦時中は要塞周辺の住民の生活も変化した。第二次世界大戦の前に小さな村アスペレンには、およそ1300人の居住者がいた。動員によって人口が急激に増え、地域に収入をもたらしたので、既存の居住者の一部は軍隊を歓迎した。特に酒場は大繁盛した。
ヒットラー台頭のナチス・ドイツ軍の脅威に備え、ニュー・ホランド・ウォーターラインよりももっと東の(つまりもっとドイツ寄り)防衛線「グリーブ・ライン」に力を入れることとなった。ルネッテンには途中で建設中止になったバンカーがある。グリーブラインに戦力を注ぐ為、経費が下りなくなった為だったらしい。

さて、100年以上の月日をかけ、敵の攻撃に備え続け構成されたニュー・ホランド・ウォーターラインを初めとするオランダの洪水線は第二次大戦でどうなったか?
1940年5月、ヒトラー率いるナチスドイツは西方電撃作戦を行う。
オランダでは当初、ナチスの侵攻を受けた場合、
1.ニュー・ホランド・ウォーターラインやアムステルダムのディフェンス・ライン、グリーブ・ラインなどの洪水線で水壁を築き、船も戦車も航行不能にして、敵の進軍を阻む。
2.要塞や防御陣地等で迎撃しつつ時間を稼ぎ、その間にフランス・イギリスの援軍を待つ
という予定であったといわれる。

しかしドイツはオランダの洪水防衛戦術を知っていた。アムステルダム・ディフェンスライン、ニュー・ホランド・ウォーター・ライン、グリーブ・ラインの洪水地域を、ドイツ軍は陸路にて進軍をしなかった。
スペイン内戦で既に航空戦がメインとなる兆しは現れていた。オランダの要塞制圧には空挺部隊が投入された。空挺からパラシュート降下してきたドイツ軍には各地で応戦が可能であった。

だが5月10日、高性能爆弾によりロッテルダムが空爆され多大な被害を被る。オランダには戦闘機ではなく爆撃機の対策がなかったのである。思いもかけない戦略と圧倒的な軍事技術の差を見せつけられる。そして「ロッテルダムの次はユトレヒト。その次はアムステルダムを空爆する」と通告される。
結果は見えてしまった、と判断したオランダ政府は、14日にドイツに降伏。王室はカナダへ、政府はイギリスへ亡命した。地上戦に備えていたオランダは、空からの攻撃に屈してしまったのである。
つまりニュー・ホランド・ウォーターライン等、19世紀からオランダが必死に張り巡らせた国中の洪水線は、具体的な実践に投入されることがなかったのである。
厳密に言えば、ルネッテンなど各地で付近の水門を空け洪水を起こした所もある。
フリースランドの方では、ドイツ軍の撃退に成功したのである。しかし侵攻してきたドイツ軍を撃退した後に国が降伏宣言をしてしまったので、地元住民の失望は大きかった。
ただし、オランダだけが軍事力に遅れをとっていたわけではなく、大戦初期は各国でもナチスの戦法にはついていけなかった。ポーランドはナチスの戦車部隊に対して騎兵隊(騎馬部隊)で突っ込んでいた。フランスはマジノ線という巨大要塞を作ったのはいいが、維持に人員を取られて身動きが出来なくなった。

ナチス・ドイツ占領下のオランダの要塞は、ナチスに使用されたものが多々ある。
沿岸では、大西洋の壁としてドイツ軍によって手を加えられた所もある。また西方のウォーターラインを、連合軍の上陸に備えてドイツ軍が使用したこともある。洪水水門などを丁寧に開くわけではなく、手っ取り早く堤防を爆破して水浸しにしたらしい。
多くの要塞の金属類はもぎ取られ溶解され、ドイツ軍の兵器となった。ドイツに鉱山がないのでドイツ軍は金属不足であった。そのためこのように占領国から金属をもぎとっていたわけである。また石油もないのでロシアの油田目当てにロシアへも侵攻したわけである。日本が石油目当てに南方を侵略したように。

戦況が進むにつれ、ユトレヒトに移動するドイツ軍のヘッドクウォーターも出てきた。敵が上陸する可能性大の沿岸よりは内陸の方が安全だからである。
ユトレヒト周辺の要塞郡はナチスによって大抵倉庫として使用された。要塞の隠蔽工作は、武器を秘密裏に隠すのに好都合であった。また、ヤファース要塞はUボートの発信中継基地として使用された。
オランダではナチス占領下でも元来の独立気風から地下抵抗も激しく、オランダが築いた要塞の中にはレジスタンスの処刑場となった所もある。ユトレヒトでは、ビルト要塞とレナウェン要塞である。ビルトに残るバンカーの一つは、処刑前のレジスタンスの牢獄として使われ、「死のバンカー」と呼ばれた。

1945年5月5日連合軍によりオランダはナチスドイツから解放される。
日本では第二次大戦後というと「戦後」と呼ばれ全てが終わったかのような表現となる。しかし欧米は戦後ではなかった。その後、世界は東西冷戦時代に入る。
オランダはNATO(北大西洋条約機構)により、アメリカを筆頭とする西側陣営の防衛協定に加盟する。オランダの最後の洪水線「アイセル・ライン」は冷戦初期、今度はNATOの防衛線の一部であった。アイセル・ラインは1949〜1952年に建設され、洪水予定地やシェルターも建設された。後に、NATO防衛ラインは西ドイツに移行したので、1964年にラインは廃止された。

オランダでは男子には兵役義務があった。(といっても時期が移るにつれ徴兵率も低くなっていく。例えば1984年では10%であった。)いくつかの要塞では、兵役用の射撃演習場が設置された。
ニュー・ホランド・ウォーターラインだと、ニューワースルイス要塞は市民防衛のヘッドクォーターとして使用され、オペレーションセンター設備を備え、オランダ全土からの攻撃情報が集まる仕組みであった。また掩蔽の要塞機能を生かし、ABC兵器で空気を汚染された場合、シェルターとして篭れる予定であった。このようなABC兵器シェルターはオランダ各地の地下に存在する。

しかし時代の流れと共に、要塞の軍事的重要性も薄れ、1951年:禁止区域条例停止、1963年:禁止区無効となる。ナールデン、ウェースプ、マーセフェーンの要塞の周囲は、禁止区域の名残で多くの木造家屋があり、独特の風景を醸し出している。ユトレヒトは。オランダ第4の都市でありながら東側に風光明媚な自然区域が残るのは、多数存在する要塞のおかげである
冷戦終了後は、兵役義務は無くなり徴兵制から志願制となった。現在、未だ一部の要塞は軍の管轄であるが、殆どの要塞は軍の手を離れる。ある要塞は放置され、あるものは公園に、あるものは博物館、会社や店などに、と用途も幅広い。

築塞時代は、要塞を周辺の自然の風景に溶け込ませ、敵から目立たなくするのが目的で植樹等によるカモフラージュが行われた。木やバラの茂み、草がフィールドや対爆掩蔽兵舎の上に植えられた。睡蓮が、空中からの敵用にカモフラージュとして濠で栽培された。その為、レンガ造りの要塞の周囲は春は美しい庭さながらである。

掩蔽兵舎の草地はヤギや羊が放牧され、微笑ましい光景である。
また長年の軍事機密で秘密の場所だった為、珍しい動植物の楽園となった。掩蔽施設は冬はコウモリの住居となり自然保護団体によって守られ、要塞は歴史的建造物、及び自然保護区域として、各種団体に管理されている。
洪水線だったので、施設は川などに沿って建てられている。川の周辺は水郷地帯で、牧歌的な風景をかもし出す。そしてホランド・ウォーターラインはその歴史から中世都市や古城も含まれ、美しい自然だけではなく、美しい建築や町並みを目にすることが出来る。
このように要塞だけではなく周囲の環境も楽しめるので、ウォーターラインは、キャンプ場やピクニック、サイクリングのポイントとしても親しまれている。
レナウェン要塞のコウモリ。大きさはハムスターの半分位。

但し気をつけなければならないのは、全ての要塞が開放されているわけではない。
未だに軍属のものもあり、それらは撮影禁止&入場禁止である。何も知らず写真を取ると、尋問を受けることがある。このHPでも撮影禁止区域は掲載していない。
そして要塞法は現在もアクティブである。有事の際その気になれば、今でもオランダは洪水防衛をすることができる。
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