Fort Pampus
パンパス海堡(1)


パンパス要塞島のカフェ・テラス 当時設置されてたクルップ砲
海上にそびえる要塞島

パンパス海堡は、アムステルダムのディフェンス・ラインに属する。19世紀の終わりにゾイデル海の一番浅い干潟部分に建設された。普仏戦争(1870)の後、ドイツ海軍がゾイデル海 からアムステルダムに進入してくる可能性を恐れたからである。パンパスは主にアイメーア(IJmeer)河口を防衛し、施設は200人以上の兵士を収容できた。
このパンパスが建つ干潟は、あまりの浅さに船が航行出来ず、オランダ東インド会社時代から海上アクセスを妨げることで有名であった。にっちもさっちも行かなくなった状態のことを「Voor Pampus liggen:パンパスで倒れる」と、例えに使われる。それはこのパンパスの浅瀬で座礁し、船が進めなくなる状態から来たとのことである。
パンパスは完成当時(1895年)は先端をいく要塞であった。当時としては最新のクルップ社製の砲4門がドイツから購入され、隠顕式砲座に据えつけられた。またパンパスは自家発電・自家給水の自給自足システムで、自家発電設備も当時としては最新の技術が用いられた。重要と見なしたポイントほどお金をかけていたと思われる。田舎の要塞になると19世紀初旬の物に土塁盛っただけとか、コンクリの避難壕数体を設置しただけ、とかになってしまう。「まさにオランダだなあ…」と感心してしまう。
パンパスの構造は、メインの要塞の周囲を壕で囲んだものだった。壕に水は無い。敵が島に上陸した時は壕とメイン要塞をつなぐ通路を遮断して防衛する。メイン要塞部の北側には厚い防護壁があり、防護壁の中には衝撃緩和の為の砂が詰められている。
1914年から1918年、動員と第一次大戦時に、この要塞島に軍人達が駐屯した。半年位この島から出れなかったグループもいて大変退屈だったそうである。MAX200人位収容した時はギュウギュウ詰めで、その上要塞特有の湿気のため常温より10度温度が高かった。兵士達のフラストレーションは溜まる一方であった。オランダの要塞に投入された兵士達は3ヶ月も経つと半数は健康を害したそうである。
しかしやはりこの要塞も、実戦に投入されることは無かった。一次大戦後は、数名の要塞警備員とその家族が交代で住んだだけである。最後の警備員は1933年にこの要塞島を後にする。なぜならゾイデル海は堤防(Afsluitdijk)によりアイセル湖になってしまい、パンパスに海上防衛の役割がなくなったからである。パンパスは海上要塞から湖上要塞になってしまった…。
ドイツ占領下では、ナチスがこの要塞の目玉「クロップ砲」をもぎとってドイツに持って行ってしまった。、例のごとく溶解して兵器にする為である。ドイツ製の大砲は火を噴く機会も無く、ドイツ人に持ち去られ溶かされる運命を辿った。現在はクロップ砲がくりぬかれた跡の大きな穴が残っているだけである。爆破除去作業で生じた僅かな破片が、砲弾と共に島の入り口に展示してある。
第二次世界大戦終了後、要塞はオランダ軍の管轄となり、1966年に行政の管轄となった。1944年から45年にかけての冬は燃料不足の為、島の樹木は伐採された。その為、パンパスにはハゲ山のようになってしまい、高い木々が無い。フラワーチルドレンの時代、60年代後半には何故かヒッピー達が島に住みついていたそうである。
現在パンパスは観光地として人気が有り、マウデン城からの船も出ている。
要塞西側から遠くアムステルダムが見える。夏のアムステルダム郊外観光コースの一つで、マウデン城とパンパスを対で訪れる人が多い。島のテラスは前ゾイデル海で現アイセル湖の眺めがよく、リゾート気分が味わえる。またコンサートなどのイベントも数多く行われる。

ヨットハーバーが近くにあり美しい帆船を頻繁に目にする。マウデン城から船で20分位。
クロップ砲の破片。 破片の傍に展示してある砲弾
クロップ砲があった場所思い切りくり抜かれている…。(T_T)

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