Fort bij Vechten
ヴェヒテン要塞(01)


青色部分は水濠。
← →側面、↑正面(敵の攻撃を受ける面)、↓咽喉部(背面:出入り口のある側)。
掩蔽棲息部…掩蔽施設の中。
A,B,C,D,E,F 側防砲郭(掩蔽棲息部)。G,H 咽喉部防衛砲郭(掩蔽棲息部)。I,K 弾薬庫(掩蔽棲息部)。L,M プライベート(掩蔽棲息部)。N, 入り口が2箇所あった時の検問所/哨舎。O 検問所/哨舎。P,Q,R,S,T リマイズ(対爆掩蔽兵器庫:掩蔽棲息部上)。U, 対爆掩蔽兵舎(1階と2階)。V, リディット(最終拠点)。W, 警備員住居。X, 売店。Z 資料館。FL, 復元された古代ローマ要塞監視塔
2番目に大きな要塞

1867年〜1870年にヴェヒテン要塞は、ユトレヒト郊外の街ブニックの南西に建設された。
ヴェヒテン要塞はニュー・ホランド・ウォーターラインでレナウェン要塞に次いで2番目の規模を誇る要塞である。レナウェン要塞から自転車で南下して10分位の所に位置する。この地帯はレナウェンを中心としてルネット砲台郡、ヘメルチェなど要塞が密集している。ユトレヒト中心部の防衛、洪水不可能地域のサポート、及びドイツ国境近くのアーネムや軍事基地のアームスフォート方面の鉄道路線。及びアイントフォーフェン方面への鉄道路線も交差し、交通の要所として気の抜けない地帯であった。
ヴェヒテンは上図のように、五稜郭タイプとポリゴンタイプのコンビネーションから成る美しいシンメトリー(左右対称)の形状をした要塞である。
ここにはかつてローマ時代の要塞カステリウム・フェシティオ(Castellum Fectio)があった。ローマ要塞の破片はヴェヒテン建築中にも発見される。
1879年〜1881年には、対爆掩蔽兵舎(1880年)の拡張とリマイズが増築され、検問所も2箇所に強化された。ただリマイズといっても動員時に人員を詰め込んだときは、ここで寝泊りせざる終えない兵士も出てきた。武器庫になったり兵舎になったりその時の状況で用途が変わった。
動員は1870年、1914年〜1918年、1939年〜1940年に行われた。1885年頃は600人程の兵士が駐屯し、80体程の火器がストックされていた。
ドイツ占領下ではドイツ軍の医療品関係の倉庫となり、9人のドイツ兵が駐屯した。
現在要塞の施設の一部は、サークルやイベント会場として使用されている。ここでユトレヒト市公認の結婚式も挙げられることが出来、2007年一杯まで予約で詰まっている。
ニュー・ホランド・ウォーターラインのインフォメーションセンターでは、お土産に例の雨水濾過水をボトルで売っている。バラックを改築したカフェもあり、ここの名物は要塞の形をした要塞クッキーである。要塞クッキーは大人気ですぐに売り切れる。
掩蔽施設は例によって10月以降はコウモリの棲家となり休業である。
この要塞へ続く並木道は、偵察機対策のカモフラージュの植樹であった。空から要塞を見難くする為である。軍用機が偵察機中心だったころの話である。 要塞警備員詰所。
検問所が二箇所あったときは、リディットの前あたりにあった。
資料館 資料館の展示より19世紀末〜20世紀初頭の軍服
まず兵舎に入る。 兵舎(図U)から側面砲郭(図B)への通路。図の細い通路部分
砲眼
砲眼から外を覗く
これは兵舎(U)各室裏の通路。狭い。 弾薬庫(K)、及び宿泊機能もあったらしい。
弾薬庫アップ

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