Fort bij Rijnauwen
レナウェン要塞(1)

入り口付近 対爆掩蔽(19世紀で)の兵舎
ニュー・ホランド・ウォーターライン最大の要塞

レナウェン要塞は31ヘクタールをカバーするニュー・ホランド・ヲーターラインの最も大きい要塞。サッカー・フィールドが64個の大きさだそうである。形状はポリゴンを応用した形で、橋を渡って入るカポニールという砲郭が先端に存在する。
1868年から1871年の間に建設され、ユトレヒト防衛線のセカンド・リングの一部だった。1877年ごろには対爆掩蔽兵舎.、2箇所の哨舎などを含む改修も行われる。
レナウェン要塞はスタンドアローンでも機能が可能で、リディット(砦の中の砦で最後の拠点)があり専属の兵士もいた。これは長期戦で最後に立て篭もる場所を意味し、台所、水場、洗濯場、トイレ、そして指令室を備えていた。2人の洗濯係の女性もいた。(女性はこの二人だけ)。
1914年〜1918年の動員の期間、要塞の周囲に外濠とコンクリートのシェルター(避難壕)が設置された。初期は大変簡単なシェルターであった。後期にもう少し頑丈なタイプになる。現在もこことヴェヒテンの間に数多くの第一次大戦型(後期タイプ)シェルターが 残存している。シェルター間は塹壕でジグザグに繋がっていた。
が、要塞が実戦に投入されることは無く、他の殆どの要塞のように2回の動員に使用されただけであった。
第二次大戦中の1942年から1945年はナチスの管轄下に置かれ倉庫として使用される。同時に、ド・ビルト要塞と共にナチスにたてついたレジスタンス達の死刑執行場であった。レジスタンスを地元の町で銃殺に処すと反独感情を煽る事になる。その為他の地方のレジスタンスがここまで連行された。中にはベルギーから連行されたレジスタンスもいた。犠牲者の数は400名とも500名とも言われているが、名前が判明しているのは50名前後だという。ナチスの協力者が終戦間際、証拠隠滅を図ったためである。
入り口の要塞警備員住居。現在森林局の人が住んでいる。 要塞内へ入る橋からの眺め
橋を渡ってすぐの検問所(哨舎)。高い窪みは人が入り、低い方のは武器を傾けてたと思われる。初期は手前の緑の扉を抜けて要塞内に出入りしていたが、運搬等に問題があるため後日脇に通路が作られた。 非戦闘時の武器弾薬庫
弾丸などは、戦闘時に各砲郭に分配、移動した。
(榴弾以降)
武器弾薬庫の屋根はわざと薄めに建設されたそうである。万が一爆発した時の為、横から全体に吹き飛ぶより、屋根だけが吹き飛ぶ方が全体的ダメージが少ないからとのことである。弾薬庫だけに?禁煙と書いてある。勿論当時のものではない。
レジスタンスの追悼の慰霊碑。
毎年5月4日の開放記念日には遺族や関係者1500人ほどがここに集まる。隣の写真の鐘は5月4日の朝8時追悼の為に鳴る。11月に(何日かは忘れた)、ドイツの強制収容所からの帰還者もここに集まり鐘の音を聞く。現在は17人生存しているとのことである。
ユトレヒトのルーカス教会からの鐘。鐘は戦後提供された。ナチスは金属が不足し、オランダの教会の鐘などを供出するように命令した。鐘はレジスタンスの象徴で、鐘を守ったということは抵抗の証であった。 年に一回、8月には草を刈って整備された。
そして、ドイツ占領下ではこのグランドで、レジスタンス達が射殺刑に処せられた。
内部見学へ 右の側防砲郭へ
要塞の屋根はチャコール・フィルターが組まれてあり、その上は掩蔽のための草地である。そこから染み込んだ雨水が溜まり、要塞内部のこのような樋に流れてくる。草地とチャコールで濾過されて飲料水として使用でき、現在もこの水は飲むことが出来る。このような樋が要塞内のそこかしこにある。 兵士達の寝室(ドミトリー)だった所。ワラを詰めた袋がマットレス代わりだった。
壁にあるフック跡は簡易棚用
砲眼(砲塔・城壁などに設けた、砲弾を発射するための穴)から外を覗く 天井には通気口がある。大砲を撃つと粉塵が上がり内部が煤だらけになるので煙突を必要とした。
動員された兵士達は農民や労働者などの一般人であった。動員生活が退屈だった為、兵舎に落書きをする者も現れた。ここの落書きには、果物や女性のことが書かれている。

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